東北地方太平洋沖地震が発生しておよそ3週間後。河野博文JSAF会長と大谷たかを氏が車で現地に入り、被災地のセーリング関係者を訪問するとともに、現地の状況を確認した。
そこで聞いた宮古商業高校の話を大谷さんに原稿にまとめていただいた。
大谷さんは、「ぜひ日本中の皆さん、いや世界中の皆さんにレポートしたいと思ってまとめました。話を聞いただけで体が震えました」とその時の様子を伝えてくれた。
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巨大な津波がくる……
私たちはすでに閉まった防潮堤の水門の海側で車を捨てて高い防潮堤の上にあがった。
第一波はハーバーをじわじわと浸食していく……始めはこんな感じかなと思っていた。
だがハーバーの防波堤では、考えられないことが起きていた。
水の壁が見る見るうちに防波堤からあふれ出し、その瞬間、防波堤は一気に倒され、とてつもない量の水が私たちに向かって襲いかかってきた。
このままでは通常の避難場所である海面から10mほどの防潮堤の上ではひとたまりもない。
堤防につながる25mほどのほんの小さな丘の急斜面を、必死で木の枝につかまりながら、頂上まで何とかよじ登り、近くの木にしがみついた。
第二波の後の引きはものすごく、ハーバーの底が見えた。
恐ろしいほどの勢いで引いていく波が轟音をたてて渦のように移動していく中を、巨大な第三波は壁となり、白波を立てながら湾口の巨大な防波堤を破壊しながら襲ってきた。
今まで私たちが立っていた堤防を飛び越えてくる車やクルーザー、そして眼下の建物が跡形もなく押し流されていくのに唖然とし、只々、先に送り出した生徒たちの無事だけを強く祈った。
当日は宮古商業高校のFJ級3隻に顧問の先生と5人の生徒がテンダーで付き添い、ハー バー前の海面で練習をしていた。
携帯電話からは地震を知らせる嫌な音が響き、今まで一度も経験したことのないような突然の大きな揺れに、陸上に待機する高校生は座り込んで抱き合って震えている。
「津波だ!」と咄嗟に沖へ無線で知らせ、「直ちに曳航でハーバーに戻るよう」に指示。直後にすぐ「船を捨てろ」と指示。
しかし曳航作業は思うようにはかどらない。生徒たちを拾いに行こうと予備のテンダーに飛び乗って海面に向かうが、気ばかり焦る。
突然、対岸の半島からハーバーに向かっての風が吹き始めた。
まるで生徒たちをハーバーに送り届けるように。
自分の中では15分で津波がやってくると直感的に感じていたので、ゆっくりと解装する「大きな地震や津波を経験したことのない」生徒たちを金切り声をあげて叱咤する。
市内に出ていたハーバーマスターが戻り、釜石では漁港が波にのまれているとの情報を聞き、顧問の先生と生徒たちに500mほど離れた坂の上にある学校にダッシュで逃げるように指示。私たちも生徒たちの着替えを2台の車に積んで水門に向かった。
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「本当に、本当に良かった。私たちはラッキーだった。もし誰か沈でもしていたら、タイミングが悪ければ……と思うと怖かった、一生懸命でした……」と涙に声を詰まらせながら、小柄なハーバーの女性職員加藤さん(宮古商業のOG)が語ってくれました。
さらに詳しいことを聞くと、海面では地震にほとんど気がつかなかったとのこと。通常から伴走艇が無線を忘れたときには、沖に届けるぐらい徹底していたことに救われた。無線の大切さを改めて思い知らされたとのことだ。
100隻近くあったヨットは大会で本部船に使う1隻のクル-ザーを残し、インターハイ用の新艇も含めて今は跡形もない。ただ見つかったのは浄土ヶ浜に打ち上げられた1隻のレスキューボート、隣の漁港の網に引っかかっていたそのボートのカギ、それに国際信号機のAPと数字旗3……
「レースは3時間延期された」を意味する残された2枚の信号旗に込められている意味は何だろうか?
きっと、今回の大被害に負けずに、今はできないけれど、3分、3時間、3週間、3カ月、3年経ったら、きっといいことがあるよ、必ずカムバックできるよ!! と神様が残してしてくれたに違いない。
なお、東北地方では仙台でも東北大学、東北学院大学、塩釜女子高校が練習中であったが、いずれも冷静かつ適切な行動で無事に避難できた。
もし、犠牲者が出ていたら日本中のセーリングが凍結してしまったでしょう。
指導者の皆さん、セーラーの皆さん、本当にありがとう!!